2013年03月

+Ave Maria!
 
主イエス・キリストのご復活、おめでとうございます!
 
今年もイースターエッグ、頂きました。↓
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お母様方が、お忙しい中で作って下さり、神さまに奉献・祝別して頂いて、教会学校の女子が配ってくれました。
 
 
こちらは昨日、天気が良かったので、朝の通勤途中で撮影したものです↓
 
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こちらは今日です。ちょっと小雨模様でしたが、桜は復活祭にどんぴしゃりで満開でした↓
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神に感謝!
 

+Ave Maria!
 
教会学校の終業式・卒業式で、恒例のおやつを食べました。
 
その中に亀田製菓のぽたぽた焼きというせんべいがありました。
 
一つ一つビニールで個包装してあるお菓子なんですが、
 
ある子供が、それを袋の外から指で押さえて、中のせんべいをバリバリ割ってふざけていました。
 
もちろん良いことではありませんが、子供の世界ではままある光景ですね。
 
それで、
 
『それは食べ物だから、そんなことしてはいけないよ』
 
と注意しました。
 
返事はありませんでした。
 
『後、ちゃんと食べてね、その割ったせんべい・・・』
 
『食べるから大丈夫。』
 
 
ところが!
 
後で子供たちが帰っていって、リーダーで掃除や片付けをしていたら・・・・・・
 
そのズタズタに割られた袋のせんべいが残されていました。
 
 
 
これはほっとけないなーと思った伊藤リーダーは、どうやってこのけじめをつけるべきか?
 
いろいろ思案した挙句、
 
そのまま本人に渡すことにしました。
 
来週、教会に来たら、はい。食べる約束だったせんべい。と言って渡せば、思い出して反省するかな、
 
と思ったのです。
 
 
でも、ちょっときついかな?子供には・・・
 
と思って、割れていない綺麗なせんべいも一袋付けて渡すことにしました。
 
こうすればこちらの本当の気持ちも分かってくれそうな気がしたのです。
 
 
次の週になりました。
 
メインのミサにはその子は来ていなかったので、やむを得ず、来ていたお父さんに事情を話して、
 
子供に渡してくれるように、お願いしました。
 
 
お父さんは理解してくれたので、その子も反省してくれたかもしれません。
 
食べ物を粗末にしないこと、一度した約束を果たすこと、自分のしたことを償うこと・・・・など。
 
 
 
こういうケースは難しいな、と正直思います。
 
頭ごなしに、コラー!と叱ればそれで済むんですが、そういうことは家庭や学校できっとされているでしょう。
 
 
キリストのなさり方というのは、一体どういうものなんだろう?
 
いろいろ考えてできる限り子供のためと思うんですが、結果、これで良かったのかな、
 
などと思う今日この頃です。
 
 
 
明日は、いよいよ聖木曜日ですね。
 
侍者の子供たちには、洗足式が待っています。
 
神に感謝!
 
 
 
 
 
 
 

+Ave Maria!
 
カトリック教会では、イースター(復活祭)前のこの時期に、ほとんどの信者が自分の過ちを認め、神さまから罪
 
のゆるしを受けます。
 
ゆるしの秘跡と呼ばれるもので、イエスキリストがこの世に残して下さった神さまがいらっしゃるという印であり、
 
その神さまと接する大切な機会でもあります。
 
俗に懺悔と呼ばれているものですね・・・多分。
 
 
 
さて、先々週になりますが、教会学校の子供たちも司祭の指導の後、ゆるしの秘跡を受けることができました。
 
子供なので、マニュアルがあります。
 
ポーランドの司祭が作って下さったものですが、そこにはこう書いてありました。
 
『悪かったことを思い出して話して下さい・・・』
 
それを見たある子供が、伊藤リーダーに質問しました。
 
『悪かったことなんかないよ、思い出さない・・・』
 
『ふ~ん、それは良い子だたんだね~、でも、本当に無かった?』
 
『無かったよ』
 
『例えば、誰かの悪口を言ったり、お父さんやお母さんの言い付けを守らなかったり、兄弟げんかとか・・・』
 
『あっ、そう言えばある(笑)』
 
『じゃあ、もう二度とそういうことはしないと誓って、神父様からゆるしの秘跡を受けて下さい。』
 
やれやれ、ようやく子供が神さまと出会う、貴重な体験の場を失わなくて済みそうだ・・・
 
そう考えていると、もう真剣な顔でもうひとつの質問が来ました。
 
『ここに悪かったことを、って書いてあるけど・・・・・
 
テストの点が悪かったことも言わなくてはいけないの?』
 
『いやぁ・・・・それは言わなくても良いと思うよ。わざとじゃなければ(笑)。』
 
子供といるとすべてが新鮮で楽しいです(笑)
 
神に感謝!
 
 
 

+Ave Maria
            
オプスデイ属人区長エチェバリーア司教様の3月のお話しの続きです。         
今月はこれが最後です。
では、どうぞ。
 
神に感謝!
 
聖週間が近づいています。
典礼が考察するよう促す光景を自分に当てはめるようにしましょう。聖ホセマリアは、「わたしたちへの愛ゆえに全身傷だらけになられた主を黙想してみましょう」[i]と勧めていました。主のこの世における最後のご様子をゆっくりと考察することにしましょう。「ご受難の悲劇において私たち自身の生命と人類の全歴史が完了されるのです。聖週間を単なる思い出としてとどめるのではなく、わたし達のうちに生き続けておられるイエス・キリストの奥義について考えをめぐらさねばなりません。キリスト信者は『もう一人のキリスト、キリスト御自身』にならなければならないのです。
人は洗礼によって自己の存在をつかさどる司祭となりました。それは『キリストによって神に嘉せられる霊のいけにえを捧げるために』(ペトロ2,5)そして神の御旨に従う精神をもって行動し、人となられたキリストと同じ使命を継続するためなのです。」[ii]
 
 すでに私たちは、聖なる過越しの三日間の典礼に信心深く与るように準備しています。さらに一人ひとりがその日々をしっかりと活用するため具体的に手段を講じることができます。行列や償いの習慣など多くの民間信心と共に、忘れてはならない「『十字架の道行』という信心業があります。これは、一年全体を通じて、十字架の神秘をわたしたちの心に深く刻み、キリストとともに十字架の道を歩み、こうして、わたしたちを内的な意味でキリストに向けて造り変える機会を与えてくれます。」[iii]
 
 四旬節の間、一人ひとり自分に役立つやり方で十字架の道行を信心深く実行しましょう。大切なことは、主のご受難を愛と感謝を込めて黙想することに専念することです。福音書は、ゲッセマニでの祈りからご死去と埋葬に到るまで、念祷の材料を十二分に提供してくれます。また聖人たちや霊的著作者の考察も活用することができます。聖ホセマリアの勧めを聞くことにしましょう。「わが主、わが神、御母マリアのいつくしみ深いまなざしのもと、わたしたちの救いの代償として歩まれた苦しみの道を、あなたと共に歩むつもりです。」[iv]思い切って申し上げます。
「わが母、悲しみの聖母、土くれでできたわたしたちが『神の子としての自由と光栄』のうちに過ごすために、御子が地上でのご生活中お望みになったあの苦しみの時を、わたしたちが再び『生きる』ことのできるよう、お助けください。」[v]
 
 そうすると、次第に心は広くなり、イエスの栄光の復活によってもたらされる恩恵を効率的に頂くことができます。そして次の教皇様の司牧職を準備することができるでしょう。私たちの祈りと犠牲で、ペトロの後継者選出のためのコンクラーベで一堂に会する枢機卿方の仕事を支えることにしましょう。私たちは次の教皇様をすでに心から愛しています。私たちにとってこれは使徒座空位期間において神の現存を保つため非常に大事なことです。
 
 先日、リトアニアの首都ビルニュスに駆け足旅行をしたことを話して終わりにします。そこで属人区の信者たちと他の人々との集まりを持ち、さらに、彼の地で深い信心を集めている暁の門の聖母を二度訪れて祈り、また旅行の間も祈りました。特に今の教会の状況のためにお願いしました。また、言うまでもなく、あなたがたのことを思いながら祈りました。ローマに帰ると、いつものように四旬節第一週目に年の黙想会が始まりました。この間にも皆さん一人ひとりのことを思い起こし、皆さんの内的外的必要のため、特に病気の人たちのために祈りました。聖ヨセフのご保護を願いつつ、オプス・デイの一致を愛し、守るようにしなさい。
 祈りと犠牲の一致のうちに、ベネディクト十六世の祈りと犠牲に支えられて、心からの愛を込めて祝福を送ります。
皆さんのパドレ
†ハビエル
ローマ、201331
 
 



[i] 聖ホセマリア、『知識の香』95.
[ii] 同上 96.
[iii] ベネディクト十六世、200744日一般謁見の講話.
[iv] 聖ホセマリア、『十字架の道行』序.
[v] 同上.

+Ave Maria
 
オプスデイ属人区長エチェバリーア司教様の3月のお話しの続きです。         
よろしければご覧下さい。
では、どうぞ。
 
神に感謝!
 主がわたしたちにお示しになった計り知れない愛をどれほど感謝しなければならないことでしょう。愛ゆえに進んでご自身をいけにえとしてお捧げになったのは、ただ全人類のためというだけではなく、聖パウロがdiléxit me et trádidit seípsum pro me [i] わたしを愛し、わたしのために身を献げられた、と記しているように、わたしたち一人ひとりのためでした。
さらに、この使徒は、イエス・キリストの贖い主としての溢れんばかりの愛を強い調子でこう記しています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」[ii]
 
 これに関してベネディクト十六世はある謁見でこうお話しになりました。
「これはなんとすばらしく、また驚くべき神秘でしょうか。わたしたちはこの神秘を決して考察し尽くすことはできません。イエスは、神でありながら、ご自分の神としての特権を自分だけのものにしようとはしませんでした。イエスはご自分が神であること、すなわちご自分の光栄ある身分と力を、勝利の道具や、わたしたちとは違うことのしるしとして用いようとはしませんでした。反対に、イエスは『自分を無にして』、人間の惨めさと無力なあり方をとりました。」[iii]
 
 『カトリック教会のカテキズム』は教えます。
「救いの計画において、神がはからわれたことは、ただ御子が『たしたちの罪のために死』(コリント15, 3)なれるだけではなく、『死を味わわれる』ことでした。
すなわち、御子は十字架上で息絶えた瞬間から復活されるまでの間に、死の状態、
つまり、ご自分の霊魂と肉体との分離の状態を体験されました。」[iv]
このように、イエスのご死去について、また、聖書が「シェオル」あるいは「陰府(よみ)」と呼ぶところで、未だ神にまみえることができず、贖いを待っていた霊魂に、救いのよき知らせがもたらされたことを非常にはっきりと述べています。
しかし、このキリストの「降下」は皆に同じような効力をもたらしたのではありません。
「イエスが死者のもとに下られたのは、地獄に落ちた者たちをそこから救い出すためでも、地獄を破壊するためでもなく、ご自分に先んじた正しい人々を解放するためでした。」[v] これは、私たちが尊重し、感謝すべき神の正義と慈しみの表明に他なりません。
 



[i] ガラテア 2,20.
[ii] 2コリント5,21.
[iii] ベネディクト十六世、200948日一般謁見(霊的講話集200995-96ページ).
[iv] 『カトリック教会のカテキズム』624.
[v] 同上633番.

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